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仕方ない、しょうがない。
結構大事ですよね、忘れがちですけど。
人間ってやっぱり「自分が今一番大変」だと思うし、そう思って当たり前だし、悲しくなったり怒ったり…
それにうまく対処できる人もいれば、内に内に抱え込んで誰にも言えなくなっちゃったり。
「弱音を吐くな!諦めるな!」って、何なんでしょうね。そんなプレッシャーの中で生きてきましたけど、そう言ってる人達ほど愚痴を言ってたりしてるんですよ、変なの。
それに従順なほど阿呆くさいなって、かと言って自分はいつも誰からも蔑ろなままで、わかってるけどっていうフラストレーション。
わかってるんです。わかってるけどこれ以上傷付きたくないし、疲れたくないし、辛い思いもしたくない。でも気持ちは真逆だから全く晴れない。
どこかで、どこかでね。もしそれを乗り越えられたら。
「仕方ない、しょうがない」って、色んなことが許せるんじゃないかなあって。
諦めじゃなくて、許すんです。
自分はそのまましっかりと立って流されずに、流れていく周囲を許す。
「しょうがないよね、違う人間なんだから」って。許せる人間の方がかっこいいと思うんです。
少しでもかっこいい生き方をしたいなって、今日も終わりそうです。
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仕方ない、しょうがない。
結構大事ですよね、忘れがちですけど。
人間ってやっぱり「自分が今一番大変」だと思うし、そう思って当たり前だし、悲しくなったり怒ったり…
それにうまく対処できる人もいれば、内に内に抱え込んで誰にも言えなくなっちゃったり。
「弱音を吐くな!諦めるな!」って、何なんでしょうね。そんなプレッシャーの中で生きてきましたけど、そう言ってる人達ほど愚痴を言ってたりしてるんですよ、変なの。
それに従順なほど阿呆くさいなって、かと言って自分はいつも誰からも蔑ろなままで、わかってるけどっていうフラストレーション。
わかってるんです。わかってるけどこれ以上傷付きたくないし、疲れたくないし、辛い思いもしたくない。でも気持ちは真逆だから全く晴れない。
どこかで、どこかでね。もしそれを乗り越えられたら。
「仕方ない、しょうがない」って、色んなことが許せるんじゃないかなあって。
諦めじゃなくて、許すんです。
自分はそのまましっかりと立って流されずに、流れていく周囲を許す。
「しょうがないよね、違う人間なんだから」って。許せる人間の方がかっこいいと思うんです。
少しでもかっこいい生き方をしたいなって、今日も終わりそうです。
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仕方ない、しょうがない。
結構大事ですよね、忘れがちですけど。
人間ってやっぱり「自分が今一番大変」だと思うし、そう思って当たり前だし、悲しくなったり怒ったり…
それにうまく対処できる人もいれば、内に内に抱え込んで誰にも言えなくなっちゃったり。
「弱音を吐くな!諦めるな!」って、何なんでしょうね。そんなプレッシャーの中で生きてきましたけど、そう言ってる人達ほど愚痴を言ってたりしてるんですよ、変なの。
それに従順なほど阿呆くさいなって、かと言って自分はいつも誰からも蔑ろなままで、わかってるけどっていうフラストレーション。
わかってるんです。わかってるけどこれ以上傷付きたくないし、疲れたくないし、辛い思いもしたくない。でも気持ちは真逆だから全く晴れない。
どこかで、どこかでね。もしそれを乗り越えられたら。
「仕方ない、しょうがない」って、色んなことが許せるんじゃないかなあって。
諦めじゃなくて、許すんです。
自分はそのまましっかりと立って流されずに、流れていく周囲を許す。
「しょうがないよね、違う人間なんだから」って。許せる人間の方がかっこいいと思うんです。
少しでもかっこいい生き方をしたいなって、今日も終わりそうです。
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最近霜降り明星のYouTubeチャンネルを見てよく笑ってるんですが、ふと風呂上りの自分の顔を鏡で見たら粗品さんそっくりでびっくりしました。
やっぱり仲のいいお笑いコンビさんはいいですね。”お笑いコンビは仲悪いほど面白い“とか聞きますけれど私はあんまり得意じゃないです。
素で笑い合っているとみんなに伝染するんですよ、やっぱり。当人たちから私みたいな視聴者にまで。
野性爆弾のくぅちゃんも同じくYouTubeで極めて下品な下ネタかコアな趣味の話しかしていないんですけれどすごいニコニコしてるんですよね。スタッフさんも。
マネージャーさんだってどこまでもご存知なわけじゃないのに「楽しそうですねえ」って笑ってるんですよ。馬鹿にした感じじゃなくて。
私自身も、いやなんかよくわからないけれど楽しそうだなあ…なんて思うと笑顔になってしまうんですよね。不思議と。
とここまで言っておいて、私は人間心理学ははちゃめちゃに苦手ですし正直メンタリスト系の方も怖いし…ちょっと関係ない話なら化学の実験とかを無理強いしてくる人がもう恐怖です。
だってその人たちっていつも計算して相手の行動や反応を楽しんでますよね、宇宙みたいな言い知れぬ深さと真意の見えなさって私の中の不安の大好物ですよ。
そう感じると、対人関係において臨床心理的な駆け引きだとか気持ちの嘘偽りはなるべく避けて過ごしたいものです。
周囲の人は自分を写す鏡と言います。
だったら尚更自分がご機嫌でいないと、私の鏡に写る粗品さんも渋い顔で「だれが引き伸ばした小栗旬や」って言うんじゃないんでしょうかね。
鏡の中の粗品さんが、せいやさんのギターの音階を全て”ミ“にチューニングしたときのような屈託の無い笑顔になっていってほしいなと思います。
執着せず、意識していきたいですね。
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まず大体の方は「初めまして」な訳ですけれど、なんで人は考えること・伝えることをやめられないんでしょうね。
パカパカケータイ、つまりガラケーがあった時代のあるあるなんですけれど、みんなそれぞれ個人でブログやサイトを立ち上げてたんですよ。めちゃくちゃ一般人なのに。
その中身はたわいもないことです。今日の授業で理不尽なことがあったとか対人関係がうまくいかないだとか、そういうの。
mixiやGREE、モバゲーが衰退してきたけれどまだまだTwitterなんて浸透していない。ブログのトップページは個々が配置をデザインしてきらきらふわふわしていたり、シンプルだったり、真っ黒な背景に薔薇が敷きつめられてたり。
そんな時代に私はスカートのウエストを二回折って、真っ黒なアイライナーをまつ毛の生え際に仕込んでいく女の子として生きていました。
他人の考えや心情、その時の気持ちの昂りに触れることは当時からとても好きでした。
誰かの言葉や感情で必ずしも私が良い方向に向かうとは限りません。書かれていることがあまりプラスなことでなかったり、まして私への悪口であれば当然悲しくなるし。
それでも人は、私は、毎日生活している限り感情が側にあって考えて、自分の中で整理して、それを誰かに伝えたい。そしてそれを知りたいと思うのは至極当然な理なんじゃないかなと思います。
私達の祖先が、パカパカケータイもないようなもっともっと昔。コミュニティで生活していくため、自分自身の“個”を作るために考えて、伝えて、別の“個”も自分を繋いでいくために相手を知ろうとする。
先人のそのときの内容も狩の話かもしれないし、お腹がすいただけかもしれない。
そうやって、たわいもないことも共有していくのが自然に今も私達ができている、したいと思うのはなんでなんだろうと思うのです。
生物学的なことで紐解けば「他と共存して自分自身の生存率を上げるため」とかなんとかおお〜…って感じの答えが出ると思いますが、私はちょっとそれは野暮だなあって。
スピリチュアルに傾き過ぎるのもどうかなあと思うけれど、きっと人は人に自然と惹かれていくんだと思うし、そうだったらいいなあって。
きらきらふわふわでも、その実あなたの中身はもっと違うかもしれない。それを私は知りたいと思うのです。
そんなことが“さらざんまい”というアニメで学べるのでぜひ見てください。よろしくお願いします。